2015年6月18日木曜日

2015.06.18 ノートは自分の友人になり得るか

● ダイスキンに色々と吐きだしている。吐きだしたダイスキンは自分の友人になるか。ダイスキンと対話しながら残りの人生を歩めるか。リアルの友人は一人もいないとしても。
 前に同じテーマで少し考えたことがあるんだけど,そのときの結論は,「なり得ない」だった。

● 潔くすべて吐きだし切れれば,ひょっとしたらこの上ない友人になってくれるのではないか。あるいは,逆に,友人どころか憎むべき敵になってしまうのかもしれないけれど。

● まずは吐きだし切る努力が必要となる。書けないときほど書くこと。
 本当に参っているときに,その参っている状況を文字にするのはかなりシンドい。ぼくは圧に弱いほうだけど,ここを改善できれば,たいていのことは跳ね返せるようになるかもしれない。

● ともかく,そうやってダイスキンに吐きだすことができたとする。そうして,吐きだされたものを受けとめたダイスキンがどんどん溜まっていくとする。
 それらを読み返して,ダイスキン(=過去の自分)と対話できるか。対話を重ねながら,人生のゴールまで辿りつけるか。

● もしできれば,天涯孤独であっても,恐れるものは何もない。自らを恃むことができる。
 しかし,どうしたって内にこもっていくことになるんでしょうね。内に,内に。これ,あまりいい状況ではないかもしれない。
 冗談を言い合って笑えるなんてことはなさそうだ。人と話すことによって得られるスッキリ感を,この手法で得ることができればいいんだけれど。達人になればできるのか。

● やはり難しいかな。
 ただねぇ,年をとると,友人関係を維持することじたいも難しくなりそうだ。なんか,我慢をしなくなるんじゃないかな,と。しなくなるんじゃなくて,できなくなるんだな。友人はいるんだけれども孤独をかこつってことが増えそうな気がする。
 だったら,孤独そのものに対する耐性を高める努力をしたほうがいい。

● これ,重要なことだと思っている。生まれるときは一人,死ぬときも一人。なら,老後も一人でいいじゃないか。よくないとしても,一人でいられるように鍛えておくのは悪いことじゃないのじゃないか。
 そのための方法論として,自分をダイスキンに吐きだして,ダイスキンを吐瀉物まみれにして,それをどんどん溜めていき,ときどき,その吐瀉物を眺め返すというのは,なかなか悪くないのじゃなかろうか。
 自分の吐瀉物を眺め返すのはけっこう踏ん切りが要ることだけれども,そこは慣れるよりしょうがない。
 
● そうした対話を試みるのであれば,パソコンの画面でやるよりも,質量のあるノートのほうが良さそうだ。
 っていうか,ノートじゃないとダメなような気がする。ここはデジタルではなく,アナログの独演場になるのじゃないかと思っている。

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